冴えない官邸前『反原発デモ』、その理由は

原発再稼働をめぐり首相官邸前の抗議運動や国会包囲が続く。どういうイデオロギーのもとにどのような理論を背景に、何を求めているのか、政府も何にどうこたえようとしているのか、よくわからない。

戦前の日本は「富国強兵」という国策の下、「鉄は国家なり」なるキャッチフレーズを旗印にして鉄鋼生産を前面に押し出し工業立国の道を歩んだ。21世紀の現在は「エネルギーこそ国家なり」で安定、安価、安全なエネルギーの調達が国家の競争の源泉である。先進国は長年、エネルギーを大量に消費し豊かな生活を築いた。新興国はダメという理論は通らない、今後も世界のエネルギー需要は増え続ける。原発はその有効な手段だ。各国のエネルギー自給率を電源別に見れば自給率の低い国が準国産エネルギーである原子力で補完し多様化している構図がみられる。急激な経済成長でエネルギー輸入が増した中国やトルコ、インドは再生可能エネルギーと原子力に活路を見出そうとしている。EU27カ国全体では自給率50%にすぎないが、EU各国は電力線やガスパイプラインでつながれピーク時や緊急時融通できる。一国でなく多国間でエネルギーの安全を保障している。
資源に乏しい日本がエネルギーをどのように調達し、何に使い、如何に安全を保証するかは国家の将来を左右する重大な問題である事は論をまたない。

日本の12年度経済白書では固定価格買い取り制度で再生可能エネルギー比率を25~30%にした場合、電力買い取り費用総額は5~7兆円で産業用電力料金が3~5割増えるという。12年度の買い取り価格は太陽光で42円/kw、風力で23.1円/kwとされ経済白書は電力買い取りの投資収益率は平均8.6%と分析している。固定価格買い取り制度は参入業者を呼び込むため高めの価格で電力を買い取る仕組みだが家計の負担が将来的にかなり重くなるという。白書は利用者の負担分を「公共料金」とみなして公正な電力料金に改正すべきではないかとしている。「再生可能エネルギー制度」は国民生活レベルを低下させ産業界の競争力を損なう大きな危険性があるという経済白書の警告である。

再生可能エネルギーでは個々の発電所の出力が小さく投入コストに比べて産出効率が悪く、地域の特性に合った小規模地域分散型にならざるをえない。日本が高度成長を遂げた「人口の都市集中、産業の工業立地集中」という高度集積・規模の効率性を生かした日本工業立国モデルとは相いれない恐れが強い。日本の社会経済が現在の延長線上を行くならば産業の地域分散化で生産効率が低下し日本は総人口が減少する以上のスピードで雇用や国民所得が減るだろう。国家政策によって労働需要を喚起し、あらたな成長市場を作りださないことには日本は衰退の道をたどる。
つまり、脱原発・再生可能エネルギー制度は今後の日本の社会経済ビジョンとリンクして考えるべきものである。たとえば、20年間お題目のように唱えながら一向に実現しない内需主導型社会に日本を変えるような社会経済の転換につなげた上での「再生可能エネルギー制度」であるべきなのだ。脱原発・再生可能エネルギーに関する国民的議論を通じて選択されるべきものは日本の将来ビジョンとリンクした電力エネルギーシステムの再設計とエネルギー政策の実現であらねばならない。政府も国民もそれを踏まえたうえで「脱原発や原発維持の問題は中長期の問題」だということを強く意識して議論すべきなのだ。

枝野経産相は「原発への依存度をできる限り減らすのが原発事故の反省を踏まえた政府の基本方針」と言う。脱原発・省原発をとるとして再生可能エネルギーだけの部分最適でなく最小限にみてもエネルギー利用の全体最適の視点がいる。3・11後の議論は各エネルギー源の導入目標や補助金政策など裁量行政的発想が濃く国家戦略における経済合理性の観点が欠けている。この問題に正面から取り組むには中長期的な国家戦略に結びつけて議論しないことには国民が納得する結論は出ないだろう。政権と国民の議論がかみ合わず、「群盲、象をなでる」的展開になるのは、この問題に対する情報の非対称性が原因である。政権側は論理的に情報を国民に包み隠さず開示すべきだ。

国民側の視座から見れば、今後も原子力発電は安全確保を前提にして世界で選択され続けるし、事故はどこでも起こりうることが今回の「フクシマ」で解ったはずだ。「原発の安全神話」なんてはじめからありえなかった。あれは組み立て産業現場で適用される事故発生の統計的確率に当てはめれば原発の事故発生確率は限りなくゼロに近いというだけのこと。
原発再稼働をめぐり首相官邸前の抗議運動や国会包囲している多くの人が求めるのは「安心」ではなかろうか。原発再稼働で大切なのは科学的根拠のある「安全の確保」で安心の確保ではない筈だ。安心を求めるのはお上に依存することの裏返しなのだ。それは心の安らぎを求める神頼みであり、平安時代に死後の極楽浄土を求めて阿弥陀如来を信仰するのと同じ発想にすぎない。専門的な話になるが数学の世界での「無限大」と同じで、「安心」とは雲をつかむようもので、実体がないのである。実体がないものを対象にに何を言っても言質を取られたことにはならない。だから、首相は首相官邸前の抗議運動や国会包囲している人に、気安く「皆さんの話は聞きましょう」と言えるし、国民が「安心」を求めれば政府はそれにこたえ原発のリスクが0だというだろう。それは、政府と国民が同じ土俵でがっぷり四つに組んだ議論の結論ではない。政府は今の反原発運動なんて「少しもこわくない、ガス抜きさえできればいい」と考えているのである。戦は己を知り、敵を知らなければ戦えないはずだ。自分の主張をぶつけるだけでは戦にならないのだ。

反原発運動を意味あるものにするには自らの主義主張の論点を整理して「虎穴に入らば虎児をえず」の精神を発揮することである。人生はリスクに満ちている。同じように、原発に関してもリスクを直視しそれをできるだけ減らすように努力し、後はリスクをとって行動することが必要だ。日本の経済発展の停滞も根本はリスクを取らない精神にあるのではなかろうか。さらに言えば、明日ではなく今の日本が目指すのはグローバル戦略。今の日本の内向きの政治・国民意見をいたずらに続けるとすれば日本は世界の流れとかけ離れていく。東京大の伊藤元重教授の言葉を借りれば「日本の中から外の世界を見るのでなく、激動する世界から日本を見るグローバルな視座」が必要なのだ。

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