【体罰問題】画一的人材養成の戦後教育からの脱皮を早急に

大阪市立桜の宮高校のバスケット部主将の自殺事件以降各地の学校で体罰が黙認されている実情が浮上、女子柔道界の暴力事件も明るみに出てきた。体罰を容認してきた風土や組織をどう改革するのかが今後の課題である。体罰に関して、目先の問題解決でなく現代の日本教育のあり方という基本的な観点から考えるべきである。

「体罰は愛情があればゆるされる」のではないか、「教える側と教わる側のお互いの了解があれば許される」とか、「教育の一環だから‐‐‐」等‥、様々な意見が新聞紙上をにぎわした。体罰問題の根本は指導者が叩く、あるいはしごく以外の指導方法を知らないところにある。体罰は心構えを重視する場合が多いが、それは指導者が合理的・論理的思考より精神主義を指導の拠り所にしていることが原因である。中高等教育において自分の意思で部活や運動部に入った生徒は向上心やモチベーションは高い。生徒が指導者の求めるレベルに達しないのは、疲労・故障などの身体的要因か練習方法のまずさ、高すぎる要求レベルなどで、やる気がないなどの精神的要因が原因でない場合が多い。にもかかわらず絶対服従という上下関係をいいことに体罰に問題解決を求めるとは、まさしく指導者が自分の指導方法や人間的未熟さを隠す行為そのものである。指導とは指導者の言うことをそのままやらすのではない、教えられたことをそのままやるような生徒はしごき的な指導者のレベル以上にはならない。
さらに体罰を是とする指導者には「人としての個人を尊重する」という民主主義の基本理念が欠けているのではないか。生徒は子供といえども「一人の人間として人格を尊重」する気持ちが指導者にあれば体罰に訴えることはないはずだ。相手が大人であれば自分の言うことを聞かないからといって体罰を与える人間は一般社会では稀だろう。多くの人間は潜在意識として他人を支配したい欲望や他人に認められたい欲望を持つ。それ等の欲望を理性でコントロールできない故に体罰が行われると考えれば、大阪桜の宮高校バスケット部員が自殺した問題で大阪市教育委員会の「自殺の前日に体罰を加えた顧問教諭(47歳)の懲戒免職」は当然である。さらに言うならば、この教諭は「母校愛」なる美名の下で自分の高校の知名度向上という大人の理論で生徒を食い物にしたのである。体罰を望む、あるいは容認する親も同様で子供は親の所有物でないことを理解すべきである。
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明治政府は1879年教育令で体罰禁止を法令化し1900年第3次小学校令では戦後の学校教育法と同じく児童への懲戒権を定めたうえ、体罰を禁じた。しかし昭和になり軍が教育への介入を強め学校での体罰が常態化されたといわれている。学校やスポーツ界に体罰が残る理由は、このような組織や集団には外部の目が届かないがゆえに封鎖性や排他性にくわえて生徒や教職員への同調、横並び圧力が残るからだ。苛めやパワーハラスメントの発生と土壌は同じである。では学校空間や教育、教育の一環としてのスポーツ指導の体質を変えるにはどうすべきか。

国力の根幹は一人ひとりの人間の能力である。本人と社会のため、人間の能力拡大と能力発揮の可能性を広げるのが教育の役割である。戦後復興期の教育体系は知識習得を重んじ均質な人材育成で集団の力を高めるモデルであった。工業製品の大量生産を思わせるこの教育モデルが体罰という軍隊教育に似た人間性軽視の教育やスポーツ指導を生き延びさせたことは否めない。時代が変わり今はグローバル化と情報革命で社会が様変わりし、これからの日本では成熟した社会の担い手として知識に加えて独創性や自主性を重んじた教育改革が必要な時代になっている。
日本の教育がその必要な改革に至らない理由は中央の官僚や少数の関係者の引いた路線をひた走る様に号令をとどろかせる統制型であることと、文科省が支配し教職員組合が補完する体制によって既得権と利権が生まれたことにある。
90年以降の教育行政を推進した臨時教育審議会は嘗て「明治以降の教育は国家主導の一斉教育で成功したが21世紀型の新しい社会に対応できない」と考え①個性重視の原則にくわえて②生涯教育体系への移行③国際化・情報化などの変化への対応を打ち出し学校中心主義からの脱却と時代変化への対応に関して行政への対処を求めたが文科省から学校までのピラミットかつ前時代的な官の体質が変革に対応できなかった。
最近諸外国では中国・韓国・シンガポールなどの理数科目への予算・人材の重点配分策にみられるように「明日の国力を築くのは今日の人作り」という理念が世界共通となり各国が教育政策を競っている。米欧は教育への公的支出を増やしつつ現場の裁量を増やし、米国各州では教育課程の編成などで学校への権限移譲が進む。英国は学校間の競争を促している。
日本も横並び人材の大量生産ではなく「個の力」を引き出す方向に教育路線を変えなければならない。教育とは国による統治行為であるとともに個人の能力を高めるサービスでもある。学ぶ側に立った政策への変換が求められる。
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「個の力」とは情報を集め問題の所在を発見し、発見した問題を解決して新しい価値を作り出す「創造力」に加えて自分の意思を他者に伝える「コミュニケーション能力」である。人間は新鮮な経験に触れたことから得る感動、すなわち未知の世界との接触を通じて見聞を広め新たなる経験と知識を広げていくものだ。教職員や生徒にとって大切なことは体験の中で身に付いた説得力であり、込み入った問題を解こうとする積極性だ。
生徒の「個の力」を引き出すには教職員が合理的・論理的思考方法をベースに素早く正しい情報を抽出する技術を生徒におしえ、生徒が自分の能力で考え独自の提案ができるように手助けすることである。そのために官がやるべきことは
①文科省は指導要領を簡素化し授業の組み立てや中身を地域や学校現場に任せることで地域や学校の創意工夫の余地を広げ子供の個性に合わせた教育をやりやすくする環境を作ること。考える力を育てるには教員も柔軟に考えることができる環境が欠かせないからだ。
②生徒が合理的・論理的思考を育む確かな知識の習得に加え、体験を重んじた学習に取り組む環境を作ること。生徒が創造力、問題発見能力を育むのは本当の「心のゆとり」が必要であり、官や教職員などの上から目線による強制があってはならない。「心のゆとり」は信頼されているという気持ちから生まれる。教職員は生徒を自分の所有物としてではなく人間としての人格を認めて対応することがカギである。
③地域における学校選択の自由度を増し学校間に競争原理を持ち込む。そして学校間格差が固定化しない方策のひとつとして学校間、学校内の情報開示に積極的に取り組む環境を整える。
④本来、教育の中立性を守るためにできた筈であるにもかかわらず、文科省―教育委員会―学校の上位下達システムや学習指導要領などの仕掛けに同調し、教育改革の道を閉ざし文科省の出先機関と化した教育委員会のありかたを抜本的に変える必要がある。今後は所轄首長の権限のもとに社会の変化に対応して教育のあり方をチェックする第三者による諮問委員会の位置付けにすべきだ。
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高い技能と規律を身につけた労働力が支えてきた高度成長等、それなりの効果をあげた戦後教育から、時代の変化を先取りして「何を残し、何を捨て、何を変える」のか、この選択が日本の将来を左右する。

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